『火垂るの墓』清太が学校に行かない理由は?当時の学校状況と戦時中のリアルも解説!

戦時中の日本を描いたジブリ作品『火垂るの墓』。
主人公・清太が学校に行かない理由は何だったのでしょうか。
- 『火垂るの墓』清太が学校に行かない理由
- 当時の学校状況はどうなっていたのか
- 映画が描く戦時中のリアルとは
幼い妹とともに時代にほんろうされた少年の心境や、当時の学校状況のリアルを読み解いていきましょう。

清太はどんな気持ちで過ごし、色々な決断をしていったんだろう?
Contents
『火垂るの墓』清太はなぜ学校に行かなかったのか?
清太は空襲で母親を亡くし、妹の節子と共に遠い親戚の家へ疎開します。
お世話になる叔母さんに挨拶をした後、学校へ向かう様子は描かれていません。
日中は常に節子と行動を共にしていることから、働いているわけでもないことが伺えますね。
その理由の一つとして、自分が出てしまうと妹を1人にしてしまうという自負が、清太を家にとどめていたのだと考えられます。

叔母さんに節子のお世話はお願いできなかったのかな?
親を亡くし、家長であるという責任感からも、幼い節子を一人にできず、学校へは「行かない」という選択をしたのかも知れませんね。
清太の学齢と当時の義務教育制度について
『火垂るの墓』の舞台である1945年、学校制度は以下のようになっていました。
- 6~12歳
- 国民学校初等科
- 初等科卒業後は複数の進路先
- 国民学校高等科:2年制
- 中学校:4~5年制
- 青年学校(男子):7年制
- 実業学校:3~5年制
- 高等女学校:4~5年制
戦争が激化する以前、現在の小学校にあたる初等科は、6年間通うことが義務付けられていて、12歳で卒業していました。
その後の進路は複数に分かれていましたが、多くは同じく義務教育となっていた高等科へ進んだようです。
ただし、1944年に教育制度が改定され、高等科へは必ずしも行かなくても良い状況に。
代わりに、男子は初等科を卒業したら青年学校に通わなければならなくなり、通常の教育に加えて、職業や軍事的な教育もおこなわれていました。

子ども達の学ぶ環境にも、戦争は影響を与えていたんだね。
映画の冒頭、清太が学校にいる様子が描かれていることをご存じでしょうか?
この時彼は14歳で、旧制中学の3年生であることが分かっています。
青年学校に通うことが義務であるはずなのに、なぜ中学校なの?と疑問に思う人もいるかも知れませんね。
実は、旧制中学校に在籍すれば、青年学校の課程を「修了済」とみなされ、通学義務が免除となりました。

清太は青年学校に通う必要がなかったのか!
当時、旧制中学へ進学できる人はほんの一握り。
初等科での成績が上位であるだけでなく、厳しい入学試験にも合格しなければなりませんでした。
授業料も高額で、一般的な家庭にとっては負担の大きい選択肢だったことでしょう。

それでも、中学校に行けば青年学校7年間分を修了済って、無理があるような気がする…。
この旧制中学に通うことは、将来官僚、医者、弁護士といった、社会的地位の高かった職業に就ける主要なルートでした。
清太の心の中には、自分は他の人とは違うんだという慢心にも似た自信があったのではないでしょうか。
疎開生活と自立せざるを得ない状況がどう影響した?
清太が学校に通わなくなった背景には、戦争という社会状況に加え、疎開先での人間関係の悪化と家族の喪失という事情もありました。
母を空襲で亡くし、父も出征中で音沙汰のない中、清太は幼い妹を連れて親戚の家に疎開します。

叔母さんの家に居候させてもらうようになってから、清太たちの人生の雲行きが怪しくなっていくんだよね。
当時は中学生くらいの子供も「労働力」として期待されており、特に1944年の戦局悪化以降、「学徒動員」により工場での勤労作業に動員されることが一般的でした。
叔母さんは、自分の子供も働きに出ているのにもかかわらず、同じ年ごろの清太が妹とふらふら遊び歩いているのを見て、不満を募らせていきます。
配給も厳しく制限されている中、何もしていない兄妹にもご飯を分け与えないといけないことに、叔母さんは不公平さを感じたのではないでしょうか。

叔母さんはただ助け合う姿勢がほしかったんだよね
彼女の態度はどんどん硬化していき、仕打ちに耐えられなくなった清太は、妹を連れて家を出る決断をします。
「節子を守るために」と思い詰めた少年にとっては、他に選択肢は思いつかなかったのかも知れません。

頼れると思える大人がいなくなってしまったんだね
清太は、家庭も学校も疎開先での居場所も失い、「これ以上誰にも頼れない」という絶望から、自立せざるを得なかったのです。
家を出てから、清太は、妹の世話や食料の調達など、自分たちで生活を成り立たせることに奔走しました。
学校に通わなかったのは、「毎日を生き抜く」という最優先事項のためにも「通える状況になかった」という側面が大きかったのだと感じます。
学校から遠ざかったのは清太の性格や判断によるものだった!
清太が学校から遠ざかっていた大きな背景には、妹を守るという強い責任感、そして彼自身の未熟さや判断の甘さが大きく関係していました。
特に、「小さな妹を守らなければ」という考えは、彼の行動を大きく左右します。

清太にとって節子は、唯一残された大切な家族だからね。
父親が軍人であり、これまで父の代わりに家を守ってきた自負もある清太には、プライドが高い一面もありました。
叔母さんから学校に通うことや働くことを促されても、それらしい理由を並べて行くことはありませんでした。
「空襲でグチャグチャだから行ってもしょうがない」と、はなから行く気すらないような受け答えをしていましたね。
学校へも行かず、地域のために働くこともしない清太の態度からは、今まで苦労を知らずに育ったが故の甘さが見え隠れしています。

節子の側にいたかったんじゃない?
4歳の妹の側を離れないことが彼女のためになると、信じて疑わなかったのでしょう。
また、唯一の肉親といつも一緒にいるという事実が、清太自身の安心感にもつながっていたのかも知れません。
14歳といえど、まだまだ子供。
大人のように現実を受け止め、状況に応じた行動を取るという柔軟性は、まだ持ち合わせていなかったのではないでしょうか。

清太のプライドも邪魔をしたんだろうな。
当時、学校や職場は地域社会とのつながりを保つ大切な場でもあり、行かなかいことは「周囲とのつながりの断つ」ことと同じでした。
妹とたった2人、人目に付かないところでの生活は、社会から完全に切り離されてしまい、支援や救済を受ける機会も失ってしまいます。
「節子のために」と選んだ行動が、かえって2人の生活を苦しくしていたのですね。
清太のこの選択は、戦争という過酷な現実の前では、結果的に正しいとは言えない、未熟なものとなってしまったと言えるでしょう。

それでも、清太も清太なりに最善を尽くしたよ。
甘えと責任感が入り混じった彼の行動は、戦争によって子どもが追い詰められていく姿そのものとも言えるでしょう。
戦時中の学校状況と『火垂るの墓』が描くリアルとは?
清太が学校に通わなかったのは、彼個人の問題以外に、国によって学校そのものが機能していなかったという、時代的背景もあります。
昭和18年には「戦時教育令」が公布され、学校の教育活動のほとんどが停止される措置を取られました。

戦争によって、今まで当たり前だったことが1つ1つなくなってしまっていたんだね…。
学問よりも軍事訓練や農作業・工場での労働など、「戦争の役に立つこと」が優先されるようになったのです。
清太も動員にも出ていて、学校は学びの場ではなく、戦争に協力するための「労働の中継点」にすぎませんでした。
こうした時代の中、「学校に通う」という選択肢は存在していたのでしょうか?
空襲や学徒動員で学校はどうなっていた?
都市部の学校は、戦況が悪化するにしたがって、ほとんどが空襲で壊滅的な状態となり、通学することが物理的に困難な状況に。
校舎そのものが使用不能になり、清太が暮らしていた神戸も例外ではありませんでした。

清太の学校や動員先も空襲でめちゃくちゃになってしまっていたよね。
また、兵を一般市民から集めなければならないようになったことで、仕事に従事する大人がどんどん減っていきました。
その穴を埋めるために、子供達が「学徒動員」という形で働きに出ていましたが、長引く戦争でその対象範囲も広がっていきます。
もはや、子供も「戦力」として扱われる時代だったのです。
学校に通えないのは子どもに限った話ではなく、中には教師が動員され、学校に先生がいないという事例もあったそう。

先生も生徒も、授業どころじゃない状態。
さらに、戦火を逃れて地方へ移動する「集団疎開」も、学校が機能しなくなる一因でした。
疎開先の学校へ生徒が押し寄せてしまい、受け入れが追いつかなくなってしまったのです。
加えて、昭和20年4月1日付で、国民学校初等科を除いた全ての授業が原則停止にされます。
校舎崩壊、学徒動員、教師の不在に生徒受け入れ不可、さらには授業停止。
とても学校として機能していたとは言えませんでした。

清太が学校に行けなかったのも、無理はないよね…。
このような背景から、清太が直面した「子どもであることを許されない時代」の残酷さが、より鮮明に見えてくるのではないでしょうか。
戦争という「学校」が清太に教えたこと
過酷な現実の中で清太が学んだのは、「生き抜くための知恵」と「絶望」でした。
節子の世話や看病から始まり、配給を得られない中での食糧の確保、空襲からの避難、窃盗など、それらは全て「日々を生き抜くための実践的な学び」だったのです。

どれも学校では教えてもらえない、サバイバル術とも言えるね。
一方、プライドの高い清太にとって一番困難だったのが、周囲の大人に頼ることでした。
作中でも、手を差し伸べたり、アドバイスしたりしてくれた大人は何人かいたものの、彼がアドバイスを受けとることはなく、ひたすら孤立の道を進みます。
戦争や叔母さんの家での冷遇から、大人への不信感があったのかもしれません。

そういえば、清太は周りに対してお礼も謝罪も一切なかったなあ。
過酷な状況で、大人も信頼できないとなれば、「節子を守れるのも、信用できるのも自分だけ」という判断にに行き着くのも、分かるような気がしますよね。
そして何より、いつ死ぬか分からないような日々の中、生きるための選択肢を悠長に考えている時間はありません。
お母さんの死も、お父さんの死の報せも全て突然でした。
清太は次々と自分を襲う絶望の中、独断で自分が生き抜くため、節子を守るための術を学ばなければならなかったのです。
他の学齢期の子供たちはどう過ごしていた?
学校へ通うこともままならなかったこの時代、清太と同じくらいの年の子供たちは、日々をどのように過ごしていたのでしょうか?
作品を観ていると、叔母さんの娘や、清太と同じく下宿していた青年は、学徒動員として働きに出ている描写があります。
当時、12歳を過ぎると学徒動員の対象となり、軍需工場などでの勤労が義務となっていました。

『火垂るの墓』の舞台の前年には、「中等学校以上の学徒の通年動員」が国によって正式に決定されていたんだって。
清太も、疎開前は神戸製鋼で学徒動員として働いていたことを劇中で語っています。
また、集団疎開によって地方に移った子供たちは、疎開先で手伝いや農作業といった勤労を求められることも珍しくありませんでした。
さらに、十分な食糧が確保できなかったり、地元の子供たちから差別的な扱いを受けたりと、決して安定した生活が保証されていたわけではありません。

叔母さんが清太に働くよう促したのは、当時ではごく普通のことだったんだね。
清太の場合は空襲で学校が崩壊し、母親を亡くした直後に突発的に疎開したので、行政や学校による学徒動員の対象として把握されなくなった可能性があります。
もしも、疎開する前に誰かに相談したり、叔母さんの言うとおりに、外の世界と何かしらのつながりを持てたりしていたなら。
早い段階で周囲の大人を頼れていたら、清太たちの未来は、もっと違ったものになったかも知れないと考えると、なんとも後味の悪い気持ちになりますね…。
まとめ
ここまで、『火垂るの墓』で清太が学校に行かない理由について、考察してきました。
戦時中という特殊な環境において、当時の学校状況は現在では想像もできないような厳しいものでしたね…。
しかし、戦時中という当時の学校状況を紐解いていくと、一概に清太だけの問題とは言えず、国も社会も子供を守れなかったという「戦争のリアル」も要因と言えます。
- 『火垂るの墓』清太が学校に行かない理由
- 節子を一人にさせないためという兄としての判断
- 当時の学校状況はどうなっていたのか
- 学徒動員や授業の停止により、学びの場ではなくなっていた
- 映画が描く戦時中のリアルとは
- 国の管理も行き届かず、「社会の外」に追いやられた子供たちの存在
清太と節子、2つの小さな命が散っていった原因には、「国が教育機関を機能させられなかった」という戦争のリアルも、大きく関わっていたことは間違いないでしょう。

もし学校に通えていたら、清太たちが生きるために別の選択肢があったのかもしれないね…。